「テロにも戦争にも反対!」ってセリフは一見正しそうだけど、でも、集会やデモなんかに行ってみると、どうも私にはしっくりこない部分がある。あなたは、本当に戦争に反対なの?どういう意味でそう言っているの?その理由は?あなたは、本当にテロをなくしたいの?どうやってそれを実現するの?ちゃんと、自分の言葉で、お互い話し合ってみない?
9月11日の航空機突撃事件には、犯行声明がでていない。
航空機を乗っ取った人たちは、自分の命が失われることを承知で、飛行機を世界貿易センタービルに突撃させた。人が、自分の命を賭けて行動するとき、それは単なる遊びではなく、何かの「思い」が、その本人にあったはずだ。しかしそれすら明らかにされないという事実が、私には、そこにある絶望を、想起させる。乗っ取り犯たちは、「話しても無駄だ」と思っているのか。それとも「自分で考えろ」と言っているのか。
しかし、犯行声明はでていないけれど、ほとんどの人はその突撃の意味を理解している。「グローバリゼーション」「新自由主義経済」などといった今の世界の経済秩序の象徴としての世界貿易センタービルと、世界一の軍事力を持つ米国国防総省が狙われたことの意味を。
本当に戦争に反対するということは、単に銃弾を打たない、爆弾を落とさない、ということではないはずだ。
自衛隊の海外派兵を止めることによって、またブッシュが爆撃をやめることによって、戦争がなくなるのではない。それではまるで、これまでの世界の状態が戦争状態ではなかったかのようではないか。アフガニスタンで、アフリカで、ラテンアメリカで、膨大な数の人々はなぜ死んでいくのか?自助努力が足らなかったからか?それは、違う。あまりにも大きすぎる経済格差、あまりにも大きすぎる貨幣価値の格差、世界中の人が生きていけるだけの食料は世界全体では生産されているのに何百万人・何千万の人が餓死していくのは、世界に不当な力関係があるからだ。「グローバリゼーション」「新自由主義経済」の名の下で、世界のたくさんの人たちがより貧困化し、より飢餓状態に追い込まれている(そして日本に住む私たちはより安いより豪華な食べ物を食べることができるようになる)。爆弾によって殺される人はかわいそうで、「グローバリゼーション」によって飢え死にさせられる人には無関心?殺される人にとっては、それが爆弾によるものであろうが、食料や薬がなくてであろうが、関係ない。南北間の、あまりにも圧倒的な力関係によって、合法的に殺されていくあまりにも多くの、無名の人たち。自衛隊の海外派兵を止めることによって、そういった人たちが食料を得られるわけではない。ブッシュが爆撃を止めることで、アフガニスタンと米国との間の(そして他の第3世界諸国と先進資本主義諸国との間の)経済的な力関係が是正されるのではない。
例えば、アフガニスタンの人たちがどうすれば餓死しなくても済むのか、例えば、世界の国民総生産の**%を北側の**ヶ国が独占している世界秩序をどうやって変えるのか。そういったことを全く考えもしないで、自衛隊の海外派兵にだけは反対し、ブッシュの爆撃だけには反対するというのは、分かり易い戦争に反対しているふりをすることで、経済のしくみを使った「分かりにくい戦争」によって餓死し病死させられている人たちのことを考えないで済むための、隠れ蓑になってしまうのではないのか。
第3世界に対する「分かりにくい戦争」つまり経済的搾取に基づいてこそ私の今の生活は維持されている。30歳過ぎのパート労働者でしかない私がコンピューターを所有し、携帯電話を所有し、電気も水も使い放題、食べようと思えば牛肉だって寿司だって食べられる、そんな日本に生まれてわたしはなんて幸せだろう!
「とりあえず今は、戦争に反対しよう!」という声をよく聴く。まるで「たった今から」戦争が始まるかのようなこういった言い方こそが、これまで何十年も続いてきた第3世界の人々への経済的な「分かりにくい戦争」の存在を、隠蔽してしまわないか。
あなたは、本当に、戦争に反対なのか?
私は、理不尽に人が死ぬのをなくしたいとは思う。できれば、分かり易い戦争だけでなく、分かりにくい戦争も、なくしたいとは思う。確かに、第3世界との経済格差は、度を超している。ではしかし、いったいどうやって実現するのか?
正直なところ、問題があまりに大きすぎて、私は途方に暮れる。しかもそれだけではない。正直なところ、私の直接の友達でもない人が何人死のうが、実は私にはあまり関心がない。そんなことより、私の生活にとっては、例えば明日のデートや、パワーマック(パソコン)を買い換えることや、知り合いとのトラブルの方が、はるかに大きな関心事だ。あまたの安い商品だって、売っているものは仕方がないじゃない。私が何らかの悪意で動いているのならともかく、生まれて、誠実に生きてきただけなのに、アフガニスタンの事なんて、私には関係ないよ。どうしようもないじゃん。
そんな感じで生活していた私に突然介入してきたのが、9月11日の航空機突撃事件だった。航空機突撃事件は、確かに、アフガニスタンで生活している人の状況や日本と第3世界との関係について、私に考えさせることに成功した。私にとっては「どうしようもないじゃん」で済ませられても、殺される方にとってはそうではない。そのことを、9月11日の航空機突撃事件は見せつけた。
これは私だけではない。9月11日の航空機突撃事件があったおかげで、そして米国がビン・ラディンをその犯人だと主張してアフガニスタンを軍事攻撃したおかげで、新聞やテレビなどのマスコミの報道するアフガニスタンや中東諸国についての情報量が、あっという間に飛躍的に増えたではないか。航空機突撃事件が起きるまではアフガニスタンのことに全く関心を示さなかった人(私のことでもあります)が、アフガニスタンがどこにあるのかも、パキスタンとの地理的関係も、そこにある都市の名前も、何にも知らなかった人の多くが、いまではそれらについての知識を持つに至っている。
これらのことは、9月11日の航空機突撃事件のおかげだ。航空機突撃事件がなければ、わたしが、私たちの社会が、今ほどアフガニスタンのことについて関心を持ち、情報を知ることは決してなかったであろう。事実の問題として、いわゆる「自爆テロ」は、実に絶大な効果を上げた。私によって、世界によって黙殺されていたアフガニスタンの状況を世界中に知らしめたという点で、9月11日の航空機突撃事件は極めて効果的、極めて有効、絶大な成果を収めたのが事実だ。映画「赤軍-PFLP 世界革命戦争宣言」の中で繰り返し出てくるテロップ「武装闘争こそが最大のプロパガンダである」が全くその通りに機能してしまった。
このことをふまえる時、何千人の死者を出した9月11日の航空機突撃事件を非難する資格が私にあるのかと私は自問せざるを得ない。少なくとも、人が死ぬからテロはいけない、などと簡単にいうことは、私にはできない。「分かりにくい戦争」で何千万人の人が死んでいくことに何の関心も払わなかったのは、誰だろう。アフガニスタンでは400万人が飢餓状態、死ぬであろうと言われているのが100万人だという。そんな事実さえも、私は航空機突撃事件がなければ知ろうともしなかった。アフガニスタンで、アフリカで、ラテンアメリカで、大勢の人が餓死病死させられたときには何もいわないで、分かり易い「自爆テロ」で数千人の人が死んだときだけ、「人殺しはよくない」なんて言うのは、やっぱり単なるご都合主義だ。
私は、私自身の心の中に「小さなテロリスト」がいることを知っている。
毎日の生活の中で、私自身がないがしろにされ、私自身が不当な扱いを受け続けたときに、人に対して、そして自分がいる場所や状況に対して、基本的な信頼感を失い、憎しみや悪意を抱いてしまうことがあるからだ。相手に分かってもらおう/分からせようとか、ちゃんと説明をしよう、ゆっくりでもいいから関係を創っていこう、などといったベクトルを完全に失ってしまい、「オマエがいなくなればいいんだ」などと相手の抹殺を心の中で願ってしまうことが、決していつもあるというわけではないけれど、全くないわけではない。
ひどい目にあったからといって、すぐに絶望したり諦めたりするわけではない。一度や二度無視されたからといって、すぐに絶望したり諦めたりするわけではない。たまに悪意のある確信犯に出会ったからといって、すぐに絶望したり諦めたりするわけではない。しかし、何回も何回も同じ様な被害に遭い続けたら、どうだろう。何年もの間、自分の表現を無視され続けたらどう思うだろう。どれだけ誠心誠意話しかけても、ずっと取り合ってもらえなかったら、どうだろう。自分の話しかけたテーマには決して回答しないで、笑顔で目の前に居続けられたら、どうだろう。
周りに話しても無駄だと思ってしまったとき、共に行動する人がいないくらいに孤立してしまったとき、それどころか誰からも「厄介者」としてしか扱ってもらえなくなってしまったとき、私は、それでも相手をくどき続ける自信がない。
「もうたくさんだ!」と思ったときに、その思いを政治的に組織して運動にすることが絶望的な時に、それが絶望時の行動様式として極めて男ジェンダー的な行動様式であることを知っていた上でもなお、「テロリスト」のように行動したくなる私自身が確実にいる。
私たちの多くは、人間には男と女がいて、男女の性別には意味があると思っている。ペニスを持つ者は男であり男らしくするものだ、マンコを持つ者は女であり女らしくするものだ、と固く信じている。男女は区別可能だと思われているからこそ、そしてその区別が自明視されているからこそ、トイレや銭湯は男女に分かれているし、学校の制服やロッカーも男女別になっている。毎日の生活の中で、常に性別が参照され、性別を基準にして物事が進む、そんな今の私たちの社会は、性別秩序の社会だ。
そして、性別秩序の世界とは、ジェンダーテロリズムが蔓延する社会のことだ。
出生時に外性器の形状を勝手に手術されるインターセックスは、世界には典型的な男女しかいないという思い込みの被害を直接身体に受けている。乳房の有無や声の高さなどの外見を根拠に勝手に「彼/彼女」と呼ばれ勝手に「男扱い」「女扱い」されるトランスジェンダー、自分の体を自分の性自認にあわせて自由に作り替えることを許されていないトランスジェンダーは、性別秩序によって性別の自己決定権を剥奪されている。男らしくない男や、女らしくない女、性別不詳者、それに、オカマやレズビアンなどは、街角で、職場で、教室で、罵倒され、時には性的な暴力の被害を受けることも、決して少なくない。また女性だというだけで、なかなか雇用されず、平均賃金は男性の半分で、電車の中では性暴力にあい、性的な暴力の被害にあったことを主張してもなかなか取り合ってもらえない。そもそも「女だとみなされる」だけで、会議でも発言がないがしろにされ、二次会ではお酌を強要される。売春を仕事にする人はなんと仕事が違法化されてしまっている。こういった、一から十までの、微にいり細にいった、ジェンダーの擁護と押しつけは、たくさんの女性やジェンダーアウトロー(性倒錯者)たちの、身体と、心を、痛めつけている。これを、「ジェンダーテロリズム」と私は呼ぶ。
しかし残念ながら、こういったジェンダーの擁護つまりジェンダーテロリズムは、「あたりまえ」と思われていて、それが不当な暴力であるという認識さえ、社会的には共有されていない。
私にとって、テロと闘うということは、性別の擁護、ジェンダーの擁護、つまりジェンダーテロリズムと闘うということも意味する。
「戦争に反対」ということで、いろんな動きが出てきたときに、私はとても複雑な思いがしました。つまり、「またか」と。「今は戦争反対という大切なことがあるから」という理由で、ジェンダーやセクシュアリティーの話、ジェンダーテロリズムの話ができなくなるのでは、しにくくなるのでは、優先順位が落ちてしまうのでは、という危惧です。
これまでの様々な運動の中で、「緊急だから」「時間がないから」「とりあえず今日だけは」という言い方をされて、私はどれだけのことをあきらめ(させられ)てきたことだろう。その場における性差別、集会の中での、デモの中での、会議の中での、ミソジニー(女性蔑視)やホモフォビア(同性関係嫌悪)を、ちゃんと考えよう、話し合おうという呼びかけを、いったいどれだけ私は断念してきたことだろう。「あとで取り組む、あとで必ずやる」といった言葉が信じられるような経験を私があまりしてこなかったのは、本当に残念だ。
「今日は戦争の話をするために集まったんだ、性差別の話をするために集まったのではない。そういう話をするならよそでやってくれ。」
私はテロリストになりたくない。人との関係を投げてしまうのではなく、諦めてしまうのではなく、私の思いを表現していきたい。対話が成立するその可能性を信じていたい。だから、黙らないことにした。私は、「いま・ここで」私の感じていることを表現する。戦争に反対することが、ミソジニーやホモフォビアと闘うことを諦めることであっては絶対にならない。
もし本当に「テロにも戦争にも反対」と言うのであれば、そのためにこそ、私は、私の目の周りにある問題、不正、差別に、取り組まなくてはいけないのだと思う。私が、テロにも戦争にも反対しようと思うのであれば、形だけで、威勢だけで反対するのではなく、本当にテロも戦争も嫌だと思うのであれば、それがどこであっても性差別と闘うということは、不可欠なことだ。誰かがないがしろにされ、マイノリティーが無視されるような、問いかけが無視され、応答がないような、私たちのいまの文化を変えない限り、テロはなくならないし戦争もなくならない。
戦争にもテロにも反対するということは、単に爆撃に反対するということであってはならない。戦争にもテロにも反対するということは、人が理不尽に殺されるということに反対することであり、第3世界と日本との間にあるあまりにも大きな経済的な格差をなくすこと、世界経済秩序を変えることでなくてはならない。戦争にもテロにも反対するということは、一部の人がないがしろにされ、マイノリティーが無視されることに反対することであり、今ここ日本にある性差別と闘うこと、私たちが共有してしまっている性別秩序の世界と文化を変えることと同じ事を意味しなくてはならない。
(第3版 2001.11.09)
空爆や海外派兵といった「分かり易い戦争」に反対するだけの、シングルイッシュー(single-issue)の「戦争反対」はやめよう。グローバリゼーション、新自由主義経済、民族差別、植民地支配、性暴力、女性差別、ホモフォビア、障害者差別、そういった本当に無数の問題と矛盾を抱えた私たちが今生きる社会全体を本当に変える、私たちの生き方と文化を変える、そういう意味での「戦争反対」を、やろう!
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(注)
まだ、残念ながら、納得のいく文章にはなっていません。が、戦争は既に起きており、事は進んでいます。そのため、中途半端であっても公開することにしました。ここに掲載したのは、2001年11月9日版です。