この文章は、LGNの準機関誌・Adon11月号からの転載です。
1997年当時は「http://www.bekkoame.or.jp/〜handson2/LGN/isogai.htm」に掲載されていました。

【資料】差別されたい」人々  磯貝宏

 第三回レズビアン・ゲイ・パレードは歴史的なパレードであった。それは後年振り返って見た時、このパレードがどんな意味を担っていたのか次第に明らかになるであろう、という類のことも含めて画期的なことである。
 第3回目のパレードを特徴づけたのは、その「パレード宣言」にある。このパレード宣言において、初めて日本のレズビアンやゲイの市氏権連動がその獲得すべき政治目標を具体的に掲げることができたからである。
 今ではごく当たり前に見え、ごくさり気なく読めてしまうこの「宣言文」の一字一句の中に込められた長い歳月の闘いを知っている者としては、パレードの宜言文が読み上げられ、拍手のうねりが統いた瞬間は感無量であった。
 この「宣言」がいかに大きな意味を持っていたかということは、小林広明さんが宣言文を読み上げ、統いて拍手の嵐が続いた後に、一部の人達が壇上に駆け井り、小林さんに暴行を働いたという事実によって確認することができる。(小林さんに暴行を加えたのは主としてOLPやラビリス・ダッシュといった団体のメンバーであろ)
 そして驚くべきことに、この「パレード宣言」に反対し、それを永久に闇に葬ろうとした入々は、なぜ反対なのか、パレード宜言のどこに異議があるのか、という自らの意見を一切一言わなかった、という事実である。
 通常、物事に反村したり、批判したりする場合は、私はこれこれの理由で反対します、という具合に自分の反対意見を表明するのが筋である。そんな事は小学生でも知っている。なぜ彼らは「パレード宣言」に反対したのか。誰一人その反対理由を言わなかったのはなぜなのか。
 この深い謎の中にこそ、現在日本のゲイやレズビアンが置かれている状況が映し出されている、と僕は思っている。

 今回、パレード宣言をテロ行為によって無効にしようという暴挙に出た入々(それは結局効を秦しなかったが)が出たことで、物事がよりはっきり見えた、と思った人々は僕の回りに大勢いる。日本のゲイやレズビアンがその運動の目標を「市民権運動」として明確に位置づけようとしたその時、そのことに強い危機感を抱いた人々がいた、という事実は、これまで曖昧にされていた<闇の部分>をくっきりと明るみに出さずにはおかなかったのだ。僕らはその事を何度も話し合った。
 確かな卓は、日本のゲイやレズビアンの置かれている明らかな差別の現状を、現状のままずっと維持しておきたいと願う勢力が存在するということである。なぜ現状のままがいいかというと、その方が生きやすい、と彼らが考えるからに他ならない。
 差別されている方が生きやすい、と考える人々はどんな入なのか、ということはしばしば議論の的となる事柄であるが、具体的には、現実の差別構造の中で、その差別構造を利用して生計を立てている人々である。その人々にとっては日本の同性愛者は是非とも、今までと同様に差別され統けてもらわなければ困るのである。
 日本の同性愛者の社会が欧米のそれとどのように異なっているかという議論をしていくと必ず突き当たる、一つの現象がある。
 欧米には無く、日本(というよりはアジア的と言っていいのかも知れない)にある特殊な現象とは「ウリ専」と言う名の管理売春組織とその資本である。
 一九九四年、第一回のパレードをしようとした時に、「パレードなどやめろ!」という執拗ないやがらせ電話が繰り返されたことがあった。誰がいやがらせ電話をかけているのだろう、という話になり、たぶんそれは、ゲイがオープンになるのを嫌がるゲイだろうというような話で大方落ち着いた。しかし、その中で「もしかしたら、ウリ専かも知れない」と呟いた人がいた。なぜウリ専が?とその時僕は訊いた。その時の彼の話を要約するとこうだ。
「パレードはその性格上、欧米と同様必然的に市氏権獲得運動となる。日本の場合、パレードを妨害するのは異性愛者ではなく、ウリ専という前近代的なビジネスだろう。なぜなら、同性愛者の権利要求が高まれば、現在「売春防止法」の適用外にあるウリ専は、法の下の平等という原則から言って、当然、法の適用を受けざるを得なくなる。その事は彼らにとって死活間題である。それを当のウリ専業者が気がつかない筈がない。」
 なるほど、と僕はその時思った。しかし、その時はまだ、いやがらせ電話=ウリ専業者ということが実感としてピンと来たわけではない。
 あれから二年経ち、その間の様々な出来事を振り返った時、彼がその時言った事がにわかに現実味を帯びている事に僕は気づいた。
 今回の第三回のパレードでは、パレードを妨害しようとする勢力の背後に、ウリ専=管理売春の影をいたるところに見い出したからである。
 新宿二丁目仲通りに立ち並ぶポルノシヨップは管理売春資本の下にある。『バディ』や『アニース』といった雑誌を出しているテラ出版という会社も同系列である。
 今回、パレード宣言を妨害しようとした勢力の顔ぶれを見ると、この管理売春資本と何らかの経済的なつながりを持つ人々であることが明らかになっている。

 同性愛者の市民権とは何か、というような事は別にむずかしい事でも何でもない。同性のカップルが一緒に住む部屋を捜して、何度も何度も家主に断られる理不尺な現実を何とかしなければならないというような人間としてごく当たり前の権利要求なのである。だからこそ欧米の市民権運動の中では一定の成果を挙げたわけだし、急激に変化しようとしている日本の政治状況の中では目前に迫った現実課題なのである。
 時代が変化しようとする時、その変化を望まない人々が必ず出現する。
 同性愛者の市民権運動は、これまで人間としての基本的人権を奪われてぎた同性愛者が平等な権利を求める運動である。平等な権利には平等な義務が付随する。日本の『売春防止法』はその適用の対象に同性愛者を含まなかった。それは、同性愛者の存在白体を認めないという前提があったからに他ならない。ゲイの管理売春という前近代的システムが今日まで存続しえたのは、同性愛者を人間として認めないという根源的な差別があったからに他ならない。つまり、管理売春という存在そのものが、日本の同性愛者差別の象徴なのである。
 日本のウリ専業者(このウリ専という言葉を知っている異性愛者は多い)は『売春防止法』の盲点の中で増殖を続けてきた。彼らは自分たちが今後もビジネスを続けてゆくためには、同性愛者(彼ら自身の多くが同性愛者である)が今後も差別され続けなければならないという構図の中で生きている。彼らが今回の「パレード宣言」に異様なまでの危機感をつのらせたのはそのせいである。
 今回のパレードは日本の同性愛者の市民権運動を妨害しようとする勢力が何であるかを白日の下にさらけ出した、という意味で画期的なことである。彼らがいかに卑劣な手口を使って真意をごまかそうとしても、白日の下ではごまかしがきかないのである。
 今回のパレード前に彼らが仕掛けたことの一つに、「パレードはお祭りか、デモか」論争があった。パレードがすっかり定着し、もはや「パレードの無い時代」への逆もどりがきかないと知った彼らは、パレード自体を変質させようと狂奔した。彼らは「レズビアン・ゲイ・パレード」を浅草のリオのカーニバルや高円寺の阿波踊りのようなものにしようとした。それが「パレードはお祭りか、デモか論争の真相である。
 答は最初からはっきりしている。レズビアン・ゲイ・パレードは「お祭りかデモか」といった二者択一の選択など必要としていないのである。「お祭りでもあり、同時にデモでもある」というのが世界共通のパレードに対する認織であって、それ以外の定義はありえない。「主張のあるお祭り」、つまり、堂々と主張を掲げること、同時にゲイやレズビアンであることを誇らかに祝うこと(セレブレーション)、この二つは世界中のゲイパレードに共通している事柄である。

 「パレード宣言」に反対した人々が、なぜ反 対理由を言えなかったのか、ということを僕 は書いた。
 今同のパレードで参加したくても参加出来 なかった人々が大勢いたことを僕は知ってい る。彼らが「パレード宣言」の妨害を呼びか けたせいである。彼らはコミュニテイにおけ る利害関係をちらつかせ、ありとあらゆる手 段で妨害に加担させようとした。ある人は、 「パレード宣言のどこが間違っているのか私 には理解できなかったが、私には付き合いが あり、もし参加すれば妨害に加わるしかなか った。それが嫌で私はパレードには行かなか った」と話している。

 同性愛者でありながら、同性愛者の差別を 願うことなしでは生きられないという極度に 歪んだ心理構造の中で生きている人々、彼ら は今後も悪質なデマや中傷によってパレード を妨害し続けるだろう。しかし、パレードは 妨害する人間が誰であるかを必ず衆目の下に さらさずにはおかない。

 今回、管理売春資本の手先となって動いた 一部のレズビアンの団体は、自分たちがなぜ パレード宣言に反対なのか、その理由を間わ れ、答に窮したあげく、見当違いの子供だま しのようなデマを流して、追及をかわそうと した。なんと、僕が『レズのくせに、何をし やがるんだ』とか言ったというようなデマ宣 伝を流したのだった。そのデマを画策したの はラブリス・ダッシュという団体の通称チュ ーという名前の人物である。
 壇上で小林さんが倒された数秒後、僕はた またますぐそばにいたチュ−に「あんたはレ ズビアンなのに、何なんだ」と言った。「ゲイ なのに、何なんだ」とチュウが言い返した。 「レズビアンなのに、何なんだ」という意味は もちろん「レズビアン・ゲイ・パレードを他 ならぬレズビアンであるあんたがなぜ妨害す るのか、理由を言ってみろ」という意味であ り、それをチュ−が誤解するわけがない。な ぜなら、その場はそうした言葉のやりとりだ けで終わったからだ。後になってその事を『レズのくせに……うんぬん』と言ったという 風に言い替えて僕を中傷しようとしたのは、 チュウとその隣にいたOLPのメンバーと思 われる人物(僕は名前を知らない)の画策で ある。僕の回りの人達は卑劣な中傷だと怒っ ていたが、僕自身は怒るというよりあきれて いる。そもそもそうした中傷が何がしかの現 実感(リアリティ)を持つとは信じがたいか らである。「レズビアンを侮辱するゲイ」とか 「ゲイを侮辱するレズビアン」とかいうものに 現実感を感じる人がいるのだろうか。少なく とも僕の回りではそうした気配は感じぢれな ただ、僕が許せないと思うのは、彼女たち がその文脈の中で明らかに、最も古い意味で の「女」を使ったことである。なぜパレード 宣言に反対したのか、と間われて、答に詰ま あったげく、古い「女=被害者」という図式 パターンにすり替えて、逃げようとするなど ということは、人間としてサイテーであり、 絶対に許せない。

 菅理売春資本の利潤ために、日本の同性 愛者の未来や、そして将来も存在するであろ う同性愛者の子供達の未来を犠牲にするなど ということがあっていい筈がない。そのこと が間われたのが第三回レズビアン・ゲイ・パ レードであったということは、はっきりと記 録しておく。

* 磯貝宏・・・LGN理事。第3回L&Gパレード実行委員

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